コミュ障の自分心中

コミュ障で自分を変えようと必死でやってきて、自分は変えられないという結論に至る。そうであればこのままの自分のまま死ぬまで付き合おう、心中してやろう!って男の日記です。

人生100年時代

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http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20181118

 

人生100年時代、最初の映像でかなり衝撃的な映像が出てくる。

認知症になった人や、意識がなくなった人に人工呼吸や人工透析で延命を図っている。

その数、数十人がベッドの上で寝たきりになっている映像だ。

もはやまるでコメディー。昔の漫画にこのような皮肉をストーリーとしたものがあったのかもしれない。

 

まるで、映画マトリックスの一場面だ。

 

ブラックジャックでやっていたテーマだが、医療とは本当に人のためになっているのかということを考えさせられる。

病気になって死ぬことは、悪いことなのか。

不幸せなのか。

そりゃ、痛いのや苦しいのは嫌だ。

だから医療は大切だ。となるのは普通だが、

生きること、苦しみを避けること自体を目的にしたら全てを見失ってしまうかもしれない。

定量的でないことを目的にしてしまうと際限がなくなってしまう。

車が欲しいからお金を貯めるのはいいが、お金を貯めることそのものを目的とすると際限がなくなってしまって、行き着くところがない。

欲望が目的と化す。

セックスしたいからお金を払ってセックスするのと、

痛いのが嫌だからお金を払って医療行為を受けることの違いは本当にあるのか。

 


自分の親が認知症で意識がなかったりしている中、延命するかどうかの決断を求められる。

そりゃ、延命を断る即断なんかできない。

でも、やっとそこで生きるかどうかを真剣に向き合い始める。

 


生の定義で意識の有無を考慮しない場合、そのうち一生死なない延命技術ができるかもしれない。そのとき、どうやって人は死に方を決めるのか。

死に方を決めなきゃいけないのか?!

 


技術の発達とは皮肉が混じっていて面白い。

エデンの園のリンゴだね。

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