コミュ障の自分心中

コミュ障で自分を変えようと必死でやってきて、自分は変えられないという結論に至る。そうであればこのままの自分のまま死ぬまで付き合おう、心中してやろう!って男の日記です。

ゆたぽんの義務教育放棄とは若さを使った恐喝である

これを聞いてまず思い浮かんだのが、オルティガ著の「大衆の反逆」で書かれていた"若さによる恐喝"です。

基本、どの国に生まれようとあらかじめ秩序が制定されていて、程度に差ほどあれ、生きる安全がある程度保障されている。それは長年かけて作り上げたものである。だからこそ、そこに生きる人たちは権利もあるが、それと同様に義務もある。しかし、若い人は例外的に成熟するまでは義務の種類は少なく、権利を多く享受しており、ある種利益を前借りしている身である。

その身でありながら教育の義務を放棄する、いやそれだけにとどまらずに放棄を宣言するとはどういうことか。人は自由だという考え方はもちろん構わない。しかし、自由というのは個人において全ての責任を受けてのち全うできるものであり、ある社会の中で自由だと宣言することは、その宣言を社会から受け止めてもらえない限りその社会から出ることを決意しないといけないはずだ。

 


たとえ、その主張する自由が理にかなったとしていても、そこの社会に属して安全などの利益を享受してきた一員はそのルールに従わなければならず、そのルールを逸脱するならルールを変えるように話し合いを持って行動しなければいけない。それが嫌ならその集団から抜ける決意が必要。

 


今回のゆたぽんに関して、正しいことがなんであれ、まず第一に成人しない限り義務に関する放棄は不可能であり、親の指示となるのであればあやの決断を持って日本国を出ないと辻褄が合わない。国家の一員となっているのなら、その中で担保されている利益を守るために最低限の憲法に基づく、義務や法律のルールほ守る必要があり、変えたいのなら皆と話変える必要がある。それを個人の見解で自由だ!と叫ぶのであればそれが許される国に移るべきである。これはその行動(中学に行かない)が理屈的に正しいとかの話では無く、私たちが安全に暮らすために作ったルールを守らない人は危険分子、社会害をもたらす可能性があるためだ。

 


それを権利ばかりを享受している身分でその権利を最大限活用し、例えその個人が成功していたとしても社会として有益かどうか考えたときに、その個人の判断で自由だ!と言われても社会を見出すだけである。

 


若さを単純に恐喝の武器として利用しているとしか見えないのである。我々は若いゆたぽんから恐喝を受けていると無意識的に感じ、恐怖するからこそここまで議論するのかもしれない。

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